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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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でてきた源氏!源頼朝

平氏に不満を持つ人々が続々出てきてるが、強大な権力をもつ平氏はかなり手強い。そんな中、あの源頼朝はというと・・・。北条時政は、政子が頼朝と結婚したことから頑張って頼朝を保護していました。頼朝は政子と大姫とともに、静かで平穏な暮らしをしていました。

ですが、各地では平氏に対する不満が高まりまくり。都から目代(もくだい)というお代官さんみたいなのが東国に派遣され、土地の権力者達とことごとく対立していました。彼ら目代は、厳しい年貢の取立てを容赦なく行っていました。目代を派遣しているのは京都の貴族ら。平氏なんかもです。

彼らは東国の武士を田舎者とバカにし、年貢だけはがっつり取っていました。東国の武士らが反発を覚えるのは当然のこと。が、反旗を翻すのには勇気が必要だった。自分の国の目代を討ったとしても、そのあと反逆者の汚名をきさせられるし、逆徒討伐として周囲の豪族から攻撃を受けるだろうし・・・。

かといって、他の豪族らに「平氏やっつけようよ?」と相談し、それがバレたら大変なことになっちゃうし・・・。東国の武士達は「ムカツク目代をやっつけて、平氏の政権を辞めさせたい。武士の国を作りたい」と心の中で思っていても、自分達にそれだけの「カリスマ」がないこともわかっていたのです。

そんな中、武士達は「源氏の嫡流」である頼朝に期待をするように。平氏と同じレベルくらい「武士としての正統な血筋」を持っており、「源氏」というだけで、武士の棟梁としての資格があるのです。この頃は「血」がめちゃくちゃ大事。現代では想像できないくらい「血」は大事だったのです。頼朝は「源氏の嫡流」ということで、東国の武士達にとって大変魅力のある男なのでした。


1180年4月 平氏をやっつけろ!以仁王の命令書

平和な生活を送っていた頼朝の所に、1180年4月「平氏をやっつけろ!」という以仁王からの命令書が届きました。頼朝は、平氏に逆らうなんてそんな大それたコト・・・と取り合いませんでした。ところが8月、今度は平氏が源氏の直系を生かしておくのは危険と、「頼朝を殺せ!」という命令を出したのです。困ったのは頼朝。

京都にいる乳母の妹の子供からも「頼朝さん!危ないから奥州に逃げた方がいいよ!」という手紙まできて逃げるかそれとも戦うか悩みまくり。頼朝を討て!という話は相模の有力豪族である平氏側の大庭景親(おおばしげちか)のもとに。大庭景親は平氏より頼朝ををとっ捕まえろ!という命令を受けてたので、当然、頼朝をやっつけるぜ!と行動開始し始めたのです。頼朝は戦うか、逃げるかで悩みましたが、もはや命まで狙われている。

悩んだ末、頼朝は戦うことを決意したのです!!そして、味方になってくれそうな関東の豪族に挙兵のお願いを始めました。関東の有力者である三浦氏や千葉氏が協力してくれることが決まり、頼朝ホッと一安心。


1180年8月17日 山木の襲撃

頼朝は、まず伊豆の目代である山木兼隆を襲うことを決意。山木兼隆は伊豆の豪族に嫌われていて、伊豆辺りのみんなはすんなり協力してくれました。が、関東の大部分はまだ様子見とこ・・・という感じ。

で、山木の襲撃は大成功。ちなみに、この襲撃の軍事責任者は北条時政。頼朝は、北条の家にいて成功したかどうかの連絡を待ってただけです。


1180年8月23日 石橋山の戦い 梶原景時 頼朝を見逃す

頼朝の協力者である三浦氏は援軍を送り込み、頼朝は三浦軍と合流しようとしました。ですが小田原にある石橋山(みかん畑)で、頼朝をやっつけようとしてた大庭景親軍3000人と遭遇しちゃったのです。対する頼朝軍は300人しかも、頼朝軍を追っかけに後ろから伊東祐親(いとうすけちか)軍300人がやってきた。頼朝大ピンチ!!!

ちなみに、この時追っかけてきた伊東祐親は頼朝が大嫌いでした。平安時代その3で書いたように、祐親が京都に行ってる間に頼朝と祐親の娘との間に子供ができちゃったからで、深夜から明け方にかけて両軍入り乱れての大激突となりました。ですが多勢に無勢。頼朝軍はメッタメタに負けちゃったのです。

頼朝や北条時政らは石橋山の背後にある山中に逃げ込み、木のほこらに隠れました。これを大庭軍の梶原景時が見つけてしまったのです。(うわ!こんなトコに隠れてるよ!こんなトコで殺されるなんて気の毒だよな。あまりにも無残だろ・・・)と思った景時は「梶原景時でございます。心配しないでくだされ」と声をかけました。

そして「ここにはおらんぞ!」と大声を出したのです。景時は頼朝らを見逃してくれたのでした。その心は「あなたが出世した時は、わしのことヨロシク」の意味もありました。なんとか助かった頼朝らは、真鶴から千葉の安房へ逃げました。安房は三浦氏の影響が強く、千葉には千葉介常胤(ちばのすけつねたね)や上総介広常(かずさのすけひろつね)ら、頼朝のお父さん(義朝)の家臣だった豪族がいるとこです。


1180年9月 木曽義仲 立ち上がる!

この頃、頼朝と同じく幼少だってことで助けられた源氏の源義仲も木曽で反乱を起こしました。やはり以仁王からの命令書を受け取ったからです。義仲の配下には「木曽四天王」という、幼馴染の樋口兼光(かねみつ)・今井兼平・根井行親(ねいゆきちか・楯親忠(たてちかただ)ら。

そして忘れちゃいけない、愛妾巴御前(ともえごぜん)が、一緒になってやってきました。ちなみに、木曽出身なので木曽義仲(きそよしなか)と呼ばれてます。また、義仲はとても美男子だったそうです。義仲の母は「小枝」という遊女と言われており、義仲の身分は源氏だったけど低かった。そして信濃地方で平氏軍と戦いをおっぱじめたのです。


頼朝 関東の武士に集合かける

安房に逃げ込んだ頼朝のモトに豪族らが集まってきました。この時、関東最大の豪族上総介広常が17000人の大軍を率いてやってきましたが、頼朝は「来るのが遅い!」と広常を怒鳴ったのです。広常は、これに感嘆。「さすが源氏の棟梁(とうりょう・親分ってこと)じゃ!」と正式に頼朝の家臣になることを決めたのです。

実は・・・広常を怒鳴って怒れというアドバイスをしたのは千葉介常胤。常胤は最初から頼朝の下につくことを決めてたんだけど、広常はまだ悩んでた。広常は、この時頼朝が頼りないお坊ちゃんだったら頼朝を殺して恩賞をもらおうと密かに企んでいたのです。

この2人は親戚なので、常胤は広常の性格をよーくわかってたからこそ成功したんですねー。関東最大級の上総介広常が頼朝の正式な家来になったというニュースはあっという間に広がり、上総が家来になったんなら大丈夫だろ!と、関東の豪族らはガンガン集結。その中には、石橋山で敵だった人たちもいました・・


何故こんなに頼朝の兵が集まったのか?

ちなみに、なんでこんなに味方が集まったかというと、先ほど↑で書いたように、東国武士は都の貴族のやり方にムカつきまくっていたから。他にも、頼朝のひいひいじーちゃんの義家のおかげというのもあります。義家は、後三年の役で源氏の味方を一杯作っといてくれたから。

それに父の義朝も東国で武士のために頑張ってたから。それと以仁王の命令書。天皇家からの命令書が来たという「大義名分」が得られたからです。まぁ、この命令書も「源氏の棟梁」である頼朝が掲げたことにより意味があるんですけどね。

また、伊豆で山木を襲撃した時に、頼朝はその土地を没収し、自分に従った者に分け与えたのです。今まで命がけで自分の土地を守っているのに、貴族らに年貢を渡すというそのやり方に納得いかなかった武士達は、この革命的なやり方にビックリ。死ぬ気で一所懸命やれば、自分達の土地を確保してくれるという頼朝のやり方(働く=褒美(土地)がもらえる)に、従うのは当然のことでした。


10月6日 頼朝 鎌倉入り

で、三浦義澄・千葉介常胤・上総介広常・畠山重忠ら4万人らの軍とともに鎌倉入りすることに。なぜ鎌倉かというと、頼朝の先祖が東北征伐の時に京都の岩清水八幡宮を移してたてまつったという源氏ゆかりの地だから。また、三方を海に囲まれ南は海という天然の要塞だったので、本拠地と決めました。ちなみに、この鎌倉入りの総指揮をとってたのは千葉介常胤・上総介広常。

実はここでも頼朝は直接指揮をとってなくって、まだ東国の武将達の神輿に乗ってるって感じでした。ほんの2ヶ月前までは、流人として伊豆で政子と静かな生活をしていたので、頼朝本人が「何でこんなことになっちゃってんだ!?」と、一番ビックリしていたことでしょう。で、せっかく鎌倉入りして久々に政子と会ったというのに、またすぐ出陣しなければなりませんでした。平維盛を総大将とした平氏が、頼朝を倒すべく兵を挙げ、駿河までやってきたからです。


1180年10月21日 富士川の合戦

頼朝は甲斐の武田軍と合流。富士川を挟んで源氏VS平氏の対陣となりました。この時の平氏の総大将が平清盛の孫の平維盛(これもり)維盛は清盛の長男・重盛の長男で、美形ぞろいの平氏の中でも特に美男子だった。笛を愛し、優雅に踊る姿は「光源氏の再来」と言われたほど。

ほんとは武士になんてなりたくなかった。そんな維盛が総大将ってことで、平氏側も「戦いなんて全然わからんお坊ちゃまを総大将にするなんて、いくら石橋山で頼朝を破ってるとはいえナメとんのか?」と言われるほど。さらに維盛坊ちゃんが総大将なんて危なっかしくて戦う気になれんわい!と平氏を離れていく武士がどんどん増え、逆に頼朝の味方が増えちゃったのです。

で、甲斐の武田源氏が抜け駆けして手柄をたてようと、夜中にこっそりと平氏のトコに攻め込もうとしました。が、水鳥が人の気配を感じてびっくりして飛び立ってしまったのです!その水鳥の音にビックリした平氏は、奇襲と勘違いしビビって福原まで逃げて帰っちゃったのです。頼朝は、戦いもせず勝ってしまった。

この富士川の合戦で、平氏の評判はガタ落ちに!頼朝はこの勢いで京まで攻めようとしたけど、三浦・千葉・上総らが「まず関東の地固めをしてからのほうがいい」というアドバイスに素直に従っいました。で、鎌倉に帰る途中奥州から駆けつけたある男と対面するのです。これが源義経(牛若丸)22歳でした。


兄と初対面! 義経見参

義経は平氏と戦っている頼朝を助けようと奥州からやってきました。「私は頼朝兄さんの腹違いの弟です。(父親同じ・母親違う)」と名乗り出たのです。対応した頼朝家臣の土肥実平(といさねひら)は「なんじゃこいつ!胡散臭いヤツめ!」と取り次ごうともしませんでした。2人の間で押し問答が続き、騒ぎを聞いた頼朝が駆けつけました。

頼朝は「話しを聞くと、間違いなく弟の九郎である。」と、涙を流して懐かしみ、義経の訪問をとても喜びました。ですが、この2人「兄弟愛」の感覚がまったく違いました。義経は頼朝のことを「兄」として見ないうちから慕っていましたが、頼朝のほうは「兄弟でもヤツは妾の産んだ弟」という感覚。再開に涙したといっても、頼朝と義経では感激の度合いが違ったのです。そしてここから悲劇の英雄としての義経伝説が始まることとなるのです。


1180年11月 頼朝 関東の大半を勢力に入れる

兄弟のご対面が終わった翌々日の23日、頼朝は論考賞を行いました。その時、石橋山の合戦で平氏方の総大将だった大庭景親が降参してきましたが、頼朝はこれを許さずに斬首したのです。次に頼朝は常陸(茨城県)の佐竹氏を攻撃。

佐竹氏はボロ負けし、頼朝は佐竹氏の所領をゲットし、家臣らに与えました。そして11月17日に鎌倉に戻り、関東の大半を勢力下に入れたのです。


1181年2月4日 平氏のゴッドファーザー 平清盛死去 

2月 平氏の大ボスである平清盛が63歳で死去しました。平清盛の体は火のように熱く、比叡山から千手井(せんじゅい)の水を汲み体につからせたら、その水が湧き上がってしまったという伝説があります。平家一門の栄華を作ってきた清盛の病態に、みんな大パニックに。

清盛は「ワシは何度も朝敵を倒し、身に余る恩賞を受けてきた。その栄華は子孫にまで及ぶはずである。が、一つだけ思い残すことがある。頼朝の首を見ることが出来なかったことである!ワシが死んだら頼朝の首を墓前にかけよ!」と言いました。

平治の乱の時に、頼朝を殺そうとしたものの池禅尼の命乞いを聞き入れたのが間違いであった!ワシが死んだ後、わが一族は源氏に対抗できるのであろうか・・・・。そう思いつつ、清盛はとうとう死んでしまったのです。

優秀な指導者を失ってしまった平氏。都は天皇が死んだ時よりも大騒ぎになりました。清盛の後は、子の平宗盛(むねもり)が棟梁に。宗盛は、頼朝・木曽義仲の首を父の墓前に飾ってやる!!と、手始めに義仲討伐の軍をあげることを決意したのです。


清盛の後を継いだ平宗盛

宗盛は清盛の三男として生まれました。嫡男重盛が早死にしたため、平氏の棟梁に。性格は臆病なところがあり、この臆病さがのち平家の士気を下げることとなってしまいます。早死にした重盛がすごく評判が良かったため、宗盛は面白くなかった。

さらに弟の知盛や重衡も優秀な武士だったため、宗盛の凡庸さがよけい目立っていました。こんな時に棟梁になってしまうなんて、不運としか言いようがないですね。また、実は宗盛は徳子(建礼門院)と近親相姦の仲だったと言われています。ですが、優しい面もありました。

以仁王が破れた時、その子供が捕らえられました。この時棟梁だったのは平清盛。清盛はこの子供を殺そうとしましたが、宗盛は可哀相に思い助けてあげたそうです。臆病者と言われていますが、根はとても優しい人だったそうです。


1181年7月20日 大工の馬事件

鎌倉では鶴岡八幡宮で若宮の棟上げ式というイベントが行われました。鶴岡若宮の造営は頼朝にとって、とても重要な事業計画で、東国武士の団結をはかる上でも大事なイベントでした。イベントは順調に進み、工事してくれた大工さんたちに馬を与えることになりました。

この時、頼朝が義経に「馬を引け」と命令したのです。義経は「は?なんでオレが?」といった感じでした。ですが頼朝は「早くしろ!」とさらに命令したのです。

義経からしてみれば「えーー!オレ、頼朝の弟だよ!?そのオレがなんで他の家臣と一緒になって馬を引かなきゃいけないのさ!そんなの家臣達にやらせればいいじゃん」という気持ちでいっぱいでした。ですが頼朝の考えは「自分以外は肉親であろうともオレに従わせねばならない。棟梁(ボス)は絶対なんだぞということを、武士達に示さねばならない。それが武士としての団結力をより深めるのだ」というものでした。

棟梁として「けじめ」をつけとかねばならない。そう思っていたのです。この時義経は、頼朝の命令に従い、渋々他の家臣たちと一緒に馬を引きました。義経は肉親として頼朝から特別扱いしてほしかった。だけど頼朝はそうではなかったのです。

また頼朝は「弟といえども義経は藤原秀衡のトコにずっといた奴だ。オレはいずれ奥州平泉をも制覇したいと思ってる。義経はもしかしたら藤原秀衡に通じてるかもしれない・・・」という疑いもありました。そして「弟の義経であろうとも、他の家臣ら同様である」ということが、人々の間に知れ渡ったのです。


北条政子 頼朝愛人 亀の前の家を焼き打ち!

頼朝が挙兵している間、政子は安全なトコに隠れてました。頼朝が鎌倉入りすると、政子も一緒に鎌倉へ。こっから頼朝の浮気がスタート。もともと京都で育った頼朝は、京の乱れた性関係を子供の頃から見てきたので妻がいながら他の女性に手を出すのは普通だった。

が、政子のいた伊豆はある程度のケジメがあり、ケジメのない頼朝の浮気癖にはムカムカしてました。一番豪快な嫉妬事件は亀の前家焼き討ち!亀の前という女性は、頼朝のとってもお気に入りの女性。

伊豆にいた頃からの仲で、一時は途切れていたんだけど、政子が妊娠中なのをいいことに逗子の小坪に呼び寄せて、頼朝はしょっちゅう会いに行っていました。それを父・時政の妻牧の方が政子にチクったもんだから政子激怒!牧の方は、時政の後妻で政子と同じ年。牧の方と政子はめちゃくちゃ仲が悪く、この情報は牧の方が「これで政子と頼朝が仲悪くなればいいのよ。フフ」といった意地悪心からの忠告でした。で、激怒した政子は牧の方の父である牧宗親に命じて、亀の前の小坪の家を焼き払い、亀の前は慌てて逃げていくという事件勃発したのです。

鎌倉に本拠地をおいて以来のスキャンダルになりました。頼朝は体裁が悪く、家を焼き払った牧宗親を呼び「オマエは忠臣だな。だがちょっとやりすぎだゾ」と髻(もとどり・髪の毛)を切ってしまったのです。髻を切られるというのは、武士にとって屈辱的なことでした。

「父が恥ずかしいめにあった!」と激怒したのは牧の方。夫の時政に泣きつき、時政は兵をまとめて伊豆に戻ってしまいました。それを聞いた政子も負けずに、亀の前に屋敷を提供した伏見広綱(ふしみひろつな)を静岡県に流しちゃいました。お互い一歩も譲らぬ壮絶な夫婦ゲンカとなったのでした。


1183年5月11日 木曽義仲 倶梨伽羅峠の合戦

義仲は信濃方面でバトルしてましたが、平維盛率いる平氏軍10万がやってくると聞き、富山県の倶梨伽羅峠で待ち構えました。味方は5万か・・・まともにぶつかったら負けるなぁ・・・と考えた義仲は「火牛の計」を決行することに。牛の角にたいまつをつけて平氏の陣中に突っ込ませたというヤツです。

義仲は夜を待ちました。そしてあたりが暗くなってきた時に、火牛の計作戦を決行したのです。火をつけられた牛ははやり立ち、平氏の陣向かって乱入していきました。平氏は大混乱に陥り、逃げ場もなく谷底に落ちる人続出。転落死体は18000人以上となる惨敗となったのです。

※でも、この火牛の計は創作性が高いそうです。


1183年7月28日 義仲軍入京 が、京都で嫌われる

勢いにのった義仲はそのまま京都へ攻めて行きました。負けてボロボロになっていた平氏は、「木曽義仲が京都を襲いにやってくるぞー!」と、京を捨てて瀬戸内海の方へ5歳の安徳天皇を連れて逃げちゃったのです。

木曽義仲は戦わずして京都に入ることができて「朝日(旭)将軍」と呼ばれました。が、この義仲の軍が柄がめちゃくちゃ悪く、金目の物を盗みまくったり京都で悪事を働きまくったのです。ちょうどこの頃、飢饉だったので余計乱暴狼藉を働いたのです。

京都の人々は、平氏よりも木曽義仲軍を嫌うように。特に嫌ったのが、後白河法皇。早く品のない木曽義仲軍に出て行ってもらいたかった。この頃「京都出身」という肩書きがめちゃくちゃ重要でした。なので田舎者の義仲は京都の貴族達からイジメにあうのです。

田舎のほうは「方言」がすごくって、筆談しないとダメだったとも言われているくらい。だから義仲軍はバカにされまくり。それにむかついて義仲軍は乱暴狼藉を働いたのかもしれません。木曽義仲は、後白河法皇に「安徳天皇がいなくなったんで、以仁王の息子を新しい天皇にしたらどう?」とアドバイスをしました。が、後白河法皇は、安徳天皇の弟(4歳)を立てる!と義仲の意見を拒否。これがのちの後鳥羽天皇。

自分の親交のある北陸宮を天皇にして、やりやすくしようとした義仲の策は失敗。さらに後白河は「政治に口出しする前に、平氏を追って瀬戸内海へ行け!」と命令。義仲はせっかく平氏を追っ払ってやったのにエラソーに!とブーブー不満。仕方なく平氏討伐に向うんだけど、義仲軍はもともと柄の悪い軍だから、京都で盗むもん盗んだらさっさと帰っちゃった人もたくさんいて、義仲は平氏に少ない兵で戦いを挑み苦戦しまくることに。


日本一の大天狗 後白河法皇

後白河は保元の乱で勝利した後、在位3年で二条天皇に譲位しました。後白河が目指したのは、おじいちゃんである白河天皇時代の絶対権力でした。時代の流れとともに武士が台頭して来たことを苦々しく思っており、

平治の乱の時や、鹿ケ谷の陰謀の時など軟禁されたり幽閉されたりと、武士による武力によって翻弄されることをムカついていました。だけど、武力がないため対抗する術を持たずにいたのです。そのため、策略により武士の力を何とかしようと、以後頭を使いまくるのです。


これが公家のイジメだ!

京都の公家たちは義仲が「田舎者」なのでいじめまくっていました。義仲が後白河法皇に会うために牛車に乗った時のコト。牛車というのは後ろから乗って前から降りるものなのに、義仲はそんな礼儀作法を知らないので逆から乗ってしまったのです。

それを見ていた公家軍団はクスクスと笑い出したました。さらに牛飼いが牛にムチをあてたところ、牛が走り出し、義仲は牛車の中でひっくり返って起き上がれなくなってしまったのです。公家連中は大爆笑。

そしてこのことが噂となり、皆で義仲を小馬鹿にするようになったのです。朝廷に有益な意見を出しても誰も取り合わなくなり、義仲はだんだんイライラしてきました。「オレが平氏をやっつけてやったのに!」と、義仲は悶々とした日々。

公家たちは義仲との交渉役に選ばれちゃったら「田舎者の悪い癖が移ってしまうのぅ」と笑った。そうなると義仲もおもしろくない。そして嫌々やってきた猫間光高(ねこま)のことをわざと「猫殿(ねこどの)」と言ってみたり、鼓の名手である鼓判官智康(つづみほうがんともやす)に「そなたを鼓判官と呼ぶのは沢山の人からぶたれまくったからかい?」と挑発したり。

自分を馬鹿にするヤツラに対しての精一杯の皮肉だったのですが、ますます公家から「なんだあいつ!田舎者のくせに生意気な!気に入らない!」と言われるようになるのです。そして実際、鼓判官は後白河に「あいつ絶対謀反企んでるよ!」と嘘の告げ口をしたりして、だんだんと義仲と後白河は仲が悪くなっていくのでした。


頼朝ちゃんお願い!義仲をどうにかしてぇー by後白河

後白河法皇は、あんな品のない奴らにいつまでも京にいられたら困る!と、頼朝に「木曽義仲を追っ払ってくれー」とお願いしたのです。京都の貴族達の間からも、「義仲軍は乱暴だからイヤでおじゃる!」と、頼朝上洛を望む声が高まりました。

頼朝も源氏の正当な嫡流である自分を差し置いて、木曽義仲が京都に入っているのが気になってたのでOKしました。そして、義仲を追っ払う代わりに「東国沙汰権」という、関東をおまかせするという権利をゲットしたのです。頼朝は木曽義仲を追っ払うために、義経を行かせる事にしました。


1183年11月7日 義経 近江に到着

頼朝から「木曽義仲討伐」を命令された義経は、10月にわずかな兵を率いて鎌倉を出発しました。11月7日には近江に到着し、京都の様子を見ることに。この頃京都では「頼朝の弟九郎が大将軍となり、数万の兵を引き連れ京都にやってくる」というニュースで持ちきりに。まだ義経の名前は知られておらず「頼朝の弟九郎とは何者だ?」と人々は噂しあいました。

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