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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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1183年11月19日 木曽義仲 クーデターを起こす

これを聞いた木曽義仲は超激怒!平氏追討のため西国へ向かっていたので慌てて戻ってきました。そして「せっかくオレが平氏を追い出してやったのに、今度は俺をやっつけるとはなんだ!!」と激怒し、クーデターが起こすことを決めたのです。

義仲は後白河法皇の家に火をつけ、法皇と天皇を監禁したのです。後白河法皇の使者は、慌てて義経のもとに。義経は「兄の頼朝に飛脚を出し、兄の命令に従い京都へ向かいます。」と返事をし、鎌倉に飛脚を飛ばしました。義経からの連絡を受けた頼朝は、木曽義仲を討つべく弟の範頼に大軍を率いさせ上洛させることに。


1184年1月11日 木曽義仲征夷大将軍になる

義仲はクーデター後 、むりやり「俺を征夷大将軍に任命しろ!」と脅し、後白河は殺されたら大変だーとほんとに征夷大将軍にしちゃいました。さらに義仲は「頼朝追討の命令を出せ!」と脅し、追討令を命じさせたのです。


宇治川合戦 佐々木高綱と梶原景季の先陣争い

その頃、義仲討伐に向ってた義経達は、宇治にいました。義経軍には佐々木高綱(たかつな)・梶原景季(かげすえ・梶原景時の長男)ら関東の有力武士らが加わっていました。そして義経軍は京都に攻め入るために宇治川から入るルートを選んだのです。

迎え撃つ義仲軍は今井兼平(かねひら)らを派遣しました。宇治川は、琵琶湖西岸にある山々の雪解け水のため増水しており、とても危険な状態になっていました。義経は川岸に進み出て、「誰か先陣をきろうという者はおらぬか?」と聞いたのです。実はこの戦いの前に、頼朝から馬を貰った者がいました。

佐々木と梶原です。佐々木は「生食(いけづき)」という癪が強く、人だろうが物だろうが喰らいつくという馬を貰い、梶原は「磨墨(するすみ)」という毛並みの黒い逞しい馬を貰っていました。この2人は密かに「オレが先陣をきるぞ!」と考えていたのです。

梶原が佐々木より10メートルばかり前を進みました。すると佐々木が「梶原殿!馬の帯がゆるんでおりまするぞ!」と叫んだのです。梶原は慌てて帯を締めなおしました。その隙をついて佐々木がざぶんと川に入りました。負けてたまるか!と梶原は「佐々木殿、手柄を立てようと焦って失敗なさるなよ。川の底に深い綱が張ってあるから気をつけなされよ」と忠告。佐々木は太刀を抜き、宇治川の急流を真一文字にきりながらとうとう向こう岸へ乗り上げました。

梶原は佐々木に一歩遅れて到着。佐々木は「近江国の佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣でござる!!」と大声で名乗り上げました。そして義経軍は続々と宇治川を渡り、義仲軍を打ち負かしたのです。監禁されれた後白河法皇も無事救出となりました


義経 ポニーに乗る!

言いたくないですが、この時代の馬は「ポニー」レベルです。ちなみに戦国時代もポニーレベル。イメージを壊したくないので、知りたくなかったんですが(笑)当時の馬は140センチ前後でした・・・「名馬」といわれる馬が140センチあるかないかなので、フツーの人たちが乗ってたのはもっと小さいです。


木曽義仲死す!家臣 今井兼平壮絶な最期

宇治川の合戦でボロ負けした義仲。少ない兵を連れ京都から逃げましたが、途中で義経の追っ手に遮られ、近江国に入った時はわずか7騎しかいませんでした。それでも何とかバラバラになっていた軍をかき集め、今井兼平とも合流し300騎ほど集めました。が、多勢に無勢。いくら頑張っても義経軍の勢いにはかないませんでした。とうとう残ったのは5騎。

この中に、義仲の愛妾巴御前も残っていましたが、自害を覚悟した義仲は巴を逃がしたのです。「もうダメだ・・・。いつもは何とも思わない鎧が、今日は非常に重く感じる・・・」と弱気になった義仲。家臣の今井兼平は「わしが敵を喰い止めまする!その間に自害しなされ!」と言いました。が、義仲は「そなた1人を残しはせぬ!一緒に討死しようぞ!」と言いましたが、兼平は「最後に不覚を取られてしまえば、後世まで義仲殿は笑い者として傷が残ります!」と、自害を進言したのです。

義仲は泣く泣く兼平と別れましたが、なんと深い溝にハマッてしまったのです!必死でもがいで出ようとしたところを弓で射られ、討ち取られてるという情けない死に方をしてしまいました。義仲31歳でした。

兼平は必死で敵を食い止めていましたが、義仲が討ち取られたことを知ると、「これが日本一の剛の者の自害のやり方じゃ!よく見ておけ!」と言って太刀を口に入れ、そのまま馬から真っさかさまに飛び降り、太刀に貫かれ死んだのです。

義仲が平清盛に捕らえられ、木曽に流されてからずーっと幼馴染として一緒に育った今井兼平の壮絶な最期でした。江戸時代の松尾芭蕉は、義仲にかなり同情していたそうです。


木曽義仲の愛妾 巴御前

木曽義仲と最後まで頑張ったのが愛妾である巴御前。実際は炊事のために従軍した「飯炊き女」で「御前」という身分ではないそうです。色白で髪が長く美人でした。美人な上に武芸にも優れており、義仲に従軍し数々の武功を立て「一騎当千(いっきとうせん・一騎で1000人くらいの強さがあるということ)」と言われていました。が、いよいよ自害を覚悟した義仲は「義仲最後の戦いに女を連れていたと言われたくない!お前は帰れ」と言いましたが、巴は最後までお供すると突っぱねました。

そこへ強くて有名な御田八郎が30騎でやってきたのです。すると巴はその集団にガンガン入って行き、御田の首をむんずと掴むと、首をねじ切ったのです。大の男を力で倒すという技をやってのけた女武将・巴。敵・味方とも驚いてあんぐり。

すると義仲が「お前がその辺の男より勇ましいことはわかっておる。が、お前はオレの木曽にいる家族に、オレの最後の様子を伝え、弔ってくれ。その方が一緒に戦死するより嬉しい。」と諌めました。

巴は納得し、木曽に落ちのびたのです。その後巴は捕まり、斬首されるというところを和田義盛という武将が「巴は容姿が美しい上に心は武士以上である」とベタボレで、巴を側室にしました。子供ももうけましたが、和田もその子供も戦死。以後は尼になり90歳過ぎまで生きたといわれています。


義経 京都へ入る

義仲が死んで、京都に入った範頼と義経。品がよかったので京都の人々から好感度抜群。京都を追い出された平氏はというと、一の谷(神戸)ってトコにいました。「源氏が内輪もめしてるぜー!今のうちに・・・」と、平氏は力を蓄え始め戦闘モードに入ってきたのです。


1184年2月 源氏 平氏追討へ向かう 一の谷の合戦

後白河はというと、平氏が安徳天皇を連れてっちゃってるので、ちょっと心配でした。「一度仲直りしようよー」と、平氏に話しを持ちかける反面、平氏が都落ちした時に裏切ったため平氏からの復讐もちょっと恐れていました。

そのため、平氏と仲直りする話しを持ちかけてるくせに、頼朝には「平氏やっつけてきてよ」と、命令したのです。源氏チームは京都を出発し二手に分かれました。頼朝が派遣したのは弟の載頼を大将とした千葉常胤(つねたね)梶原景時・小山朝政ら56000騎。そして義経を大将とした土肥実平(といさねひら)三浦義連(みうらよしつら)熊谷直実(くまがいなおざね)ら20000騎でした。平氏のいる一の谷は海と断崖絶壁に囲まれた場所にある天然の要塞で、攻めるのは大変なトコでした。


頼朝の弟 載頼(のりより)

載頼(のりより)は、義朝の六男で、母は遊女でした。順番的には頼朝の弟で、義経の兄になります。幼年時代はどのように暮らしていたのか詳しくわかっていません。1180年に兄の頼朝か挙兵するというニュースを聞くと、すぐに頼朝のもとへ行き、以後は頼朝の下で働くように。

性格は温厚で、頼朝に逆らうようなことは一切しませんでした。「石橋をたたいて渡る」タイプで、決断力にも欠けていましたが、とても優しい人だったそうです。


鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし

攻めるとしたら細い道からか、海しかなかった。義経は、敵陣を見下ろす断崖絶壁から攻めようかと考えはじめました。地元の人に「この崖降りれるかな?」と聞くと「無理無理。時々鹿は駆け下りてるけど、馬じゃ無理だよ」という答え。が、義経は「鹿が降りれるなら馬も下りれる!」と試しに馬を突き落とした。

そしたらちゃんと降りれる馬もいたので、これなら大丈夫だ!と義経は、馬に乗って断崖絶壁を駆け下りたのです。これが「鵯越(ひよどりごえ) の逆落とし」です。平氏は思っても見ないとこから義経軍がやってきたので大パニックに!

千人余りが戦死し、残った者は慌てて海へ逃げていっちゃいました。総大将の宗盛(むねもり)は、安徳天皇を抱えて讃岐(香川県)の屋島に逃れました。そして平氏はこの合戦で重要な人物が何人も討死してしまったのです。


敦盛の最期 熊谷直実の武士の情け

平氏がことごとく逃げて行き、義経軍の熊谷直実は「平氏の大将クラスを討ち取って手柄を立てるぞ!」と海岸の方へ向かっていきました。すると海岸に立派な鎧を着た若武者がいたのです。

「おっ!あの鎧は大将クラスだな!」と喜んだ直実。そして「そこにいられるのは平氏の大将軍とお見受けいたす!敵に後ろを見せるのは卑怯でござるぞ!こちらへ戻れ!」と大声を張り上げました。これを聞いて若武者が振り返りました。直実はその若武者を取り押さえて首を斬ろうと兜を押し上げると、その中身は16・7歳で薄化粧をし、歯を黒く染めた美しい美少年だったのです。「うわぁ。ワシの子である小次郎と同い年くらいではないか・・・」そう思った直実。

「ワシは我が子小次郎の軽傷でさえ辛い。おぬしの父は我が子が討たれたとなるとどんなに悲しむだろうか。ここで討たなくとも平氏には勝てるであろう。ここは助けてしんぜよう」と、その美少年を助けることにしたのです。が、そう思って後ろを見ると、味方の土肥や梶原の軍がやってくるのが見えました。「うわ!来ちゃったよ!ここで彼の命を助けたところで、逃げ切れないだろうな・・・。仕方ない。他の者の手にかかるくらいなら自分が・・・」と、直実は涙を流しながらその若武者の首を斬ったのでした。

そしてその若武者は敦盛という17才の少年だということがわかりました。笛を愛しており、最期の時も腰に笛を差しておりました。その笛の名は「小枝(さえだ)」というそうです。敦盛の生命のはかなさは「幸若舞」として、織田信長にも愛されました。


義経 平氏の首を晒す

一の谷の戦勝の知らせは後白河法皇にもたらされました。そして討ち取った平氏の首をさらすことに。これには貴族が大反対。「平氏は朝廷にずっと仕えていたし、帝の外戚であるぞ?木曽義仲とはワケが違う!」と反対したんですが、

義経も載頼も自分の父である義朝の汚名を挽回させるためにも、首をさらすことは譲れない!ということに。結局、主だった平氏の首を(敦盛も入ってるよ)さらしたのです。


義経 京都でトップスターに

この時、範頼は木曽義仲をやっつけたことと、平氏を一の谷で破ったことを頼朝に報告しようと鎌倉へ戻った。が、この報告が正確に頼朝に伝わらなかった。一の谷の奇襲の作戦を考えたのが、梶原や畠山になっていたのでありました・・・。義経はトップスターとなり京都でちやほやされまくり。

女の人なんてキャーキャーと義経に気に入られようと騒ぎまくった。この時義経もきちんと頼朝のいる鎌倉に行き、きちんと報告していれば、のちの悲劇は起こらずにすんだのです。


1184年8月 義経・頼朝 不穏な空気に・・・

頼朝は、誰にこーゆーご褒美をあげますよーってのを書いた報告書を範頼に持たせ、範頼は後白河法皇にそれを見せました。すると、あれだけ活躍した義経のご褒美が全然なかったのです。後白河は「義経にご褒美何にもないじゃん。じゃぁワシがあげよう」ってことで、頼朝に内緒で「右衛門尉検非違使(さえもんのじょうけびいし)」という役職を義経にあげちゃったのです。

そして義経はその役職を、頼朝に断りもなく受けてしまったのです。それを聞いた頼朝は、激怒!この頃頼朝は鎌倉にて「侍所(さむらいどころ)」を作ってて、ご褒美はココを通してあげるっていうシステムを作っていました。

頼朝が武士のために作ったシステムを、兄弟である義経が無視して勝手にご褒美をもらったことを頼朝はカンカンに怒ったのです。義経はすぐに弁解の手紙を出しました。「これは自ら望んだものではないです!度々後白河法皇に言われて断ることができずに、仕方なく受けたのです」というものでした。だけど鎌倉にて武士のシステムを作ろうとしていた頼朝は、そんな弁明の手紙で怒りが収まらなかった。で、義経を謹慎処分にしちゃったのです。

義経は、はっきりいって政治がちょっと疎かった。この役職を貰ったときも「なんでそんなに怒ってるんだろ?源氏がこのような名誉ある職をもらえるなんて、むしろ光栄なことじゃないか!」という感覚だったのです。頼朝の立場とか考えを全く理解していませんでした。もう少し政治がわかってればこの役職を辞退してたはず。

また、後白河法皇も頼朝の力が強くなってきているのを牽制するために義経を可愛がり、二人の対立をあおるのです。頼朝は、平氏制圧を範頼に命じ義経を排除しようとしました。頑張って平氏を一ノ谷でやっつけたのに、謹慎をくらった義経は京でストレスたまりまくり。そんな中、静御前と出会ったのです。

義経の愛妾 日本一の白拍子 静御前

静御前の出生は不明です。1182年に都では日照り続きで、美人の舞いで竜神様の怒りをしずめようってことで、後白河は都中のグッドルッキン白拍子を100名集め、順番に舞わせて雨乞いをしました。百人目の静が舞い始めたとたん、雨が降ってきたのです。人々は「竜神が静の舞いを見て雨を降らせた」とささやき合い、後白河は「日本一の白拍子」と静を褒めたといわれています。

ちなみに白拍子とは院政時代に活躍してた女性芸能者で、踊りを舞う女性。今でいうとホステスです。静はすっごい美人で、たちまち都一の美女と有名になりました。義経は、平氏追討の戦勝祝いの宴で舞っている静にヒトメボレ。
当時24人くらいいる愛人の1人に静を選びました。あまりにも美人なので、数ある愛人の中でNO1に。義経27歳・静15歳でした。


1184年9月18日 義経「判官」に就任する

頼朝の立場を全然考えていない政治オンチの義経は、とうとう大夫判官(だいふはんがん)という地位に就きました。そして10月には昇殿を許されました。昇殿に上がれるというのは、「官廷人」の仲間入りをしたことを意味するもので、さらにこの時華やかなイベントが行われました。

義経が乗ったのは「八葉(はちよう)の車」で、大臣などお偉いさんのみが乗れる車で、判官レベルでは乗れる代物ではありませんでした。が、義経はこれに乗ることを許されたのです。義経が判官という職にあったため、ここから「判官贔屓(はんがんびいき)」という言葉が生まれました。

不遇な人や弱い人に同情するという意味です。日本人はこの気持ちがとても強く、悪人でも不幸な生い立ちだったことがわかると同情しちゃう。つまり「判官贔屓」しちゃってるワケです。


頼朝 河越重頼女(かわごえしげよりのむすめ)と義経を結婚させる

義経が「八葉の車」に乗って盛大なイベントに出席したという話しを聞いた頼朝。もー腹たって仕方ありませんでした。この頃頼朝の耳には、京にいる義経の悪い噂がガンガン入ってきていました。そこで信頼できる比企尼一族の娘と結婚させよう!ということで、頼朝は義経に河越重頼女を嫁がることにしたのです。

河越重頼女(かわごえしげよりのむすめ)は、頼朝の乳母である比企尼一族の娘です。伊豆で生活してた頼朝が世話になった比企尼一族の娘で、頼朝が鎌倉生活を始める時一緒に呼ばれて信頼されてた一族でした。で、のびのーびと暮らしていた河越重頼女に突然縁談話が。

正妻として京へ行かされるが、この頃兄弟仲は最悪だったので、義経の家臣なんかは河越重頼女が嫌いで冷たくしていました。そのうち兄弟仲は完全に決裂し、義経は河越重頼女と離婚。無理やり追い返すことになります。

 
平氏勢力挽回!載頼「オレ、ダメだよー」

一の谷で敗れた平氏は讃岐の屋島(香川県)と、長門の彦島(山口県)に逃げ、再び勢力を戻しつつありました。頼朝は義経を謹慎処分とし、全てを載頼に任せていました。ですが、載頼はやられっぱなし。全く進撃が進まずにいました。

さらに、平氏に軍の食料補給ルートを絶たれてしまい、兵糧不足となってしまいました。苦しんだ兵は国へ戻っていく始末。載頼は頼朝に「助けてー」と手紙を出したのです。頼朝は仕方なく義経を出陣させることにしました。河越重頼女と結婚し、静と愛人生活を送っていた義経ですが、やっとこさ平氏追討の参加許可が降りて大喜び。


1185年2月 義経再び

頼朝の命令を受け総大将として出陣することとなった義経。平氏をやっつけるまで都には帰りません!と後白河法皇に約束し、2月3日 平氏のいる讃岐の屋島を目指して京都を出ました。2月18日には阿波国(徳島県)に到着しました。

この時、すごい暴風雨で船乗りが「こんな嵐では船を出せません」と言ったんだけど、義経は「この程度の嵐でガタガタ言うな!船を出せ!」と無理やり船を出し、なんとか阿波国に到着したのです。


軍奉行 梶原景時

梶原景時は、石橋山の戦いの時に頼朝を見つけたが見逃したことにより、その後頼朝の重臣として活躍していました。景時は東国武士の中ではずば抜けて教養があり、特に歌の道はプロ並み。京都育ちのボンボンである頼朝は「東国武士の中にもこんな風流人がいるのんだなぁ」と、景時を気に入ったのです。

景時の歌の才能は子供達も引継いでおり、梶原一族は東国武士でNO1の京都文化通となっていくのです。
※平家物語では義経の敵役とはなり、陰湿な悪いヤツのイメージがあります。


義経VS梶原景時 逆櫓の争い

この時は、義経が総大将、景時が軍奉行(軍師みたいな感じ)として参戦していました。船出の時に、景時は「船は馬と違いすぐ向きを変えれないので、船の舳先と艫の両方にあらかじめ逆櫓をつけたほうがいい」と、意見しました。だけど義経は「最初から逆櫓をつけてれば逃げ支度をしてると思われ、兵の士気が下がるだろ」と大反対。

さらに「戦いというものは最初から逃げることを考えてやるもんじゃないであろう?景時殿の船には逆櫓でも何でもつければいい。義経の船はそんなものつけはせん」とあざ笑ったのです。景時は「優れた大将というのは、戦況を見極め身の安全を確保しながら敵を倒すものです。突進するだけを考えてるのは猪武者と言います。それでは良い大将とは言えませんな」と嫌味。

怒った義経は「猪だかなんだか知らないが、戦いというのは勝てればいいのだ。ひたすら攻め、勝った方が気持ちがいいだろ!」と言い放ったのです。両者とも譲らず、険悪なムードのままとなってしまいました。義経からしてみれば、自分は総大将であり、今までの戦いは全て勝っている。景時からしてみれば、自分は頼朝から派遣され任されているので、危ないことはしたくない。両者の言い分もわかるけど、この頃の頼朝からしてみれば天才個人プレイをする義経より、みんなを統制していくリーダー的な景時の方が必要でした。そしてここから、梶原景時と義経の対立が表面化したのです。


1185年2月19日 屋島の合戦

暴風雨の中、到着した義経軍。平氏のいる屋島の背後を密かに進んでいました。そして背後からの奇襲を行ったのです。前面の海から攻めてくるだろうと思っていた平氏はビックリ。くつろぎまくっていた所を奇襲されたもんだから、またも逃げることになってしまったのです。

安徳天皇を連れて、西へ逃げていきました。平氏にとって屋島から逃げるということは、瀬戸内海の制海権を喪失してしまったということとなり、かなりの痛手。そして平氏側の兵からも、「平氏はもうダメだな」と源氏側につく者が増えてきたのです。


平氏 占いに頼る

あまりにも負け続きの平氏。「何か悪いモンがとりついてるんじゃないか?」と思うように。平氏の総大将平宗盛が、占いで平氏の運を占うことにしました。日が暮れかけ、両軍船を引きかけたその時、小舟がゆらゆらとやってきました。

源氏側は「ナンダあれ?」と目を凝らすと、その船には18歳くらいの美女が乗っており、金色の日の丸が描いてある真っ赤な軍扇を竿にはさみ、手招きをしているのです。義経は「どうやら扇を射よということのようだな。誰か腕に自信のある者はいないか?」と声を上げました。すると兵らが「那須与一という者がおります。」と言い、与一が義経の前に呼ばれました。


扇の的討ち 那須与一

与一の弓の腕前は10歳くらいから有名でした。この時わずか17歳。義経に「扇を射落とせ」と言われたもののホントはドッキドキ。無理です!と、断ったんだけど義経の命令には逆らえなかった。そして「南無八幡大菩薩」とつぶやき、見事扇を撃ち落したのです。これには源平双方からどよめきが。

与一の的が当たったことによって感動し、平氏側の1人の老武者が舞を舞いました。すると義経は与一に、「あの平家の老武者めがけて、もう一発討っちゃえ」と命令。与一の弓矢は見事に命中して、その老武者は死んでしまったのです。これには源氏方大フィーバー。

だけど平家は静まりかえり「情けなし・・・」と非難したそうです。風流な人が多い平家と、無骨な源氏武者との違いでした。その後、与一は鳥取城の初代城主となるんだけど、梶原景時とケンカをして越後に飛ばされちゃいます。

だけど17歳だった少年の心は病んでいました。自分が殺した人々のことを考え、ノイローゼ状態となり西国を放浪し始めます。そして64歳で没したのでした。


源氏と平氏の違い

平氏は都での華やかな貴族文化に慣れており、風流な人がとても多かった。そして源氏は、東国の武士の寄せ集めだったため野蛮な人が多かったのです。

食べ物も違いました。平氏は各地の貢物を食べていたため、腐らないように塩分を多く含んだ食事が多かった。塩分が多いし固いし、消化も悪かったため栄養面はめちゃくちゃ悪かったのです。

かたや源氏は狩などで新鮮な獣類を食べており、たまり味噌や握り飯を食べていました。栄養面もよく、エネルギーもバッチリ。体力のつく食べ物を食べていたのです。


平氏 壇ノ浦へ集結

平氏は、屋島を捨ててさらに西へ西へと移動。山口県の壇ノ浦に全軍を集結させることに。義経らは、海戦を得意とする平氏を今度こそコテンパンにやっつけてやろうと、兵糧を調達したりと準備をしまくっていました。こうして義経らは兵船を確保しながら、平氏の集結している壇ノ浦へ進んでいったのです。


1185年3月24日 義経VS梶原景時 またも大喧嘩!

この日、壇ノ浦の合戦の火蓋が切れることとなりますが、決戦当日にまたも義経と景時が大喧嘩をしたのです。景時が「先陣に出たい」と言ったことが原因でした。武士にとって最高の名誉が「先陣」を遂げ、味方に勝利のチャンスを作ることでした。

二番手は意味がなく、真っ先に敵陣へ突入するという「先陣」は危険を伴っているがゆえに、最高の名誉だったのです。で、景時が義経に「ワシを先陣に出させていただきたい」とお願い。すると義経「え?だってオレがいるじゃん。オレが先陣として出るよ」といったのです。

「は?だって義経殿は総大将ではないか!総大将が先陣をきるなど聞いたことがない!」と景時ビックリ!義経は「オレ、自分のこと大将と思ってないから。大将は兄の頼朝だろう?」と言い返したのです。これには呆れた景時。「はぁ・・・。義経殿は生まれつき武士の主にはなれないお方だな」と言ったのです。

これを聞いた義経は超激怒!「お前こそ日本一の大バカだ!」と刀に手をかけました。景時も負けちゃあいない。「バカをバカと言って何が悪い!ワシだって自分の主人は頼朝殿以外おらぬわ!」と刀に手をかけたのです。総大将と軍師が刀を手に取り睨み合っているもんだから、周りにいたみんなビックリ!

三浦義澄(よしずみ)と土肥実平(どいさねひら)が間に入り、「今日が決戦だというのに同士討ちなどしてはいけません!これを聞いた平氏が喜びますぞ?こんなことが頼朝殿の耳に入ったらどうなされる?」と、何とか2人をなだめたのです。


1185年 3月 壇ノ浦の合戦

壇ノ浦で平氏全軍を集結させている宗盛。陸には降りずに海上にいました。対する義経は、熊野水軍・伊予水軍を味方につけ何とか合戦準備完了。壇ノ浦では船と船の戦いになります。ちなみに、この時間違えないように平氏の船には赤旗。源氏は白旗。これが運動会とかで、紅白に分かれて戦うモトになります。

この戦いは、海戦慣れした平氏有利と思われました。源氏800平氏500の船で、朝の6時に戦闘スタート!!ちなみに平家物語によると源氏3000。平氏1000になっています。最初は、平氏が優勢。ここで負けたら後のない平氏がガンガン攻めまくりました。が、午後になると潮の流れが変わり、平氏の船はこいでも逆さに流されちゃうように。

さらに平氏にとって決定的な出来事が!平氏側の重臣である阿波重能が平氏を裏切り、源氏に寝返ったのです。阿波重能は息子が義経に捕まったため寝返ったのでした。そして阿波は平氏側の作戦を全てバラしたのです。平知盛は阿波の心変わりに薄々感ずいており「こんなことならさっさと重能を殺しとくべきだった!」と後悔しました。この寝返りにより、平氏の士気は一気にダウンしました。

これはチャンスと義経。船を接近させ、次々と飛び乗り源氏優勢に。さらに源氏側は平氏の漕ぎ手と舵取りを殺しまくりました。当時の合戦ではタブーとされていた「戦うことの出来ない非戦闘員である舵取り・漕ぎ手は殺さないこと」というのを破ったのです。こうなると船は機動力ゼロとなり大混乱になったのです。すると、平氏側からも源氏側へ寝返る人が相次いで出てきてしまったのです。


平氏の滅亡 「海の底の都へ遊びに行きましょう・・・」

平氏の敗戦は決定的となってきました。いよいよ最後の時が来たことを悟った平知盛(たいらのとももり)。身の回りの掃除をはじめ、慌てている女房達に「最後の時」が来たことを告げました。

平氏は源氏に捕らえられ、辱めをうけるくらいなら!と死を選ぶ人が続出。平氏の人々は手をつないで海へ身を投げたのです。この時8歳だった平清盛の孫・安徳天皇も二位の尼(清盛の妻)に抱かれ三種の神器とともに海へ飛び込んでいきました。安徳天皇は「おばあちゃん。どこに行くの?」と訪ねると、二位の尼は「海の底にある都に遊びに行きましょう」と言ったそうです。安徳天皇の母(清盛の娘で、高倉天皇の妻)も海へ飛び込みましたが、衣服に矢が刺さり沈めずにいたところを源氏に助けられてしまいました。

平氏の女性でただ1人生き残ってしまい、29歳の若さで尼となりその後30年以上京都の「寂光院」というお寺で滅亡した平氏のために祈って過ごすことに。ここには後白河法皇も気遣って訪問し、慰めました。女達が続々と飛び込むと、次は平氏の男達。教盛(清盛の弟)・経盛兄弟、資盛(清盛の長男重盛の長男)・有盛(重盛の四男)・行盛(清盛の次男の長男)らは、鎧の上に碇を背負って手をつなぎ海の底へ沈んでいったのです。


平宗盛呆然・・・・

平氏が次々と海へ沈んでいくのを見て、呆然と立ち尽くしていたのが平氏の総大将宗盛とその息子清宗。その情けない姿を見た平氏の武士が2人を海に落としたのです。ですが2人は泳ぎ上手で浮かび上がってしまいました。そこを義経軍に見つけられてしまい、捕虜となってしまったのです。

ちなみにこの時宗盛は、母である二位の尼に「実はお前は私の実の子ではない。最初に出来た子が女の子であったため、清水寺の傘売りの子と交換してもらったのだ。」と衝撃告白されちゃいました。まぁ、この話しは「源平盛衰記」に書いてあり、実話ではないそうですけどね。最後まで奮闘したのは教経(のりつね・清盛の弟の息子)「今日が最後じゃ!」と、手にある弓矢を全て射り、源氏の船に次々と乗り移って死に物狂いで戦いました。義経めがけて奮闘しまくりました。が、義経が見つからないとわかると、知盛が「あまり無駄な殺生はするな。もはや我らに勝機はない」と言いました。

教経は、もはやこれまで!と、源氏側の武士を2人両脇に挟んで海に沈んでいったのです。そして最後まで船に残っていた知盛。平氏一門の人々の最期を見届け、鎧二つを身にまとい、乳母の子である伊賀家長とともに手をつなぎ沈んでいきました。ここに日本国中に数々の平氏落ち武者伝説を残して、30年栄華を極めた平氏は滅亡しました。

その後、安徳天皇が眠っているからという理由で、壇ノ浦では釣り人は正座して釣りをするようになったそうです。そして平氏一族の物語は「平家物語」として、琵琶法師によって語り継がれていきます。戦いの最後を「海上は赤旗で真っ赤となり、紅葉の嵐のようであった。主のいない虚しい船は風に従いゆらゆらと揺られ、その様はとても哀れであった」とあります。ちなみに、1904年に出された小泉八雲の怪談耳なし芳一も平家が絡んでます。


義経 平氏滅亡を報告

義経は平家滅亡の使者を京都と鎌倉に出しました。4月3日 最初に後白河法皇のもとに戦勝報告が届きました。後白河は「大功の至りである!」とめちゃくちゃ褒めました。数日後、鎌倉にいる頼朝のもとへ。頼朝は報告書を手に取ると、鶴岡八幡宮の方にひれ伏し、しばらく座っていたそうです。


1185年4月21日 梶原の書状に頼朝怒る!

報告書を受け取った数日後、頼朝のもとに梶原景時からの書状が届きました。そこには「今回の合戦は本当に勝ててよかったです。ですが、申したいことがございます。判官殿(義経)は頼朝殿の代わりとして平氏と戦いましたが、この勝利を自分1人の手柄のように言っております。」

さらに「多くの御家人は頼朝殿の為に戦ったのであります。が、平氏を滅ぼした判官殿(義経)は、思い上がりはなはだしく、高慢になってきており、誰も心から判官殿に従いたくはない状況であります。私は頼朝殿の命令を受け、判官殿の勝手な振る舞いを見るたびに、諫言しましたが、諌めると逆ギレする有様。私はもう判官殿の側に仕えたくありません。早く鎌倉に帰らせていただきたくお願いいたします。」というものでした。

確かに義経は戦の天才としてヒラメキで勝っちゃうタイプでした。そのためスタンドプレイが多かったのも事実です。さらに、もう1人の弟である載頼はコマメに戦況報告をしていたのに、義経は事の次第を一切頼朝に報告せず、全て自分勝手に処置していました。政治オンチ義経パワーが炸裂していたのです。頼朝は義経が勝手に後白河から官位を貰ったことを、いまだ許せない状況でした。そんな中、戦いには勝ったものの梶原からのこの手紙。

頼朝は義経に対して警戒心をさらに強め、4月29日にとうとう「今後、鎌倉に忠義を尽くそうと思うものは、一切義経の命令に従うな」という書状を出したのです。つまりは義経を勘当する。源氏とはいっさい関係ないということになったのです。このハゲ!このネズミ!頼朝悪口書きまくり さらに頼朝は、義経以外の者で、自分に無断で朝廷の官職を受けた御家人24人に対しても厳しい処罰を出しました。

その24人の名前を書き出し、名前の下に悪口を書きまくったのです。例えば「こいつはハゲのくせに生意気」「こいつはいつもネズミのようにおどおどした目をしている」「こいつは色白で顔が不気味」「こいつは声が変」などなど。よっぽど腹が立っていたのでしょう・・・。


天皇家 三種の神器

天皇家には代々天皇に引き継がれる三種の神器というものがありました。

八咫鏡(やたのかがみ)
草薙の剣(くさなぎのつるぎ)
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)

この3つを持ってる人が本当の天皇というシンボルです。木曽義仲が京を攻めた時に、平氏が安徳天皇と一緒に持って逃げて行ってしまったものです。朝廷では、後白河法皇が安徳天皇の次の天皇に、安徳の弟を天皇にしたんだけど(1183年 後鳥羽天皇)三種の神器がないので、ちょっと体裁悪かった。今回の壇ノ浦で鏡と勾玉は取り返すことができたんだけど、草薙の剣は海に沈んで行方不明になってしまったのです。そして三種の神器だけは取り戻せよ!と、義経に散々言っていたのに、草薙の剣を取り戻せなかったことも、頼朝は怒っていたのでした。


1185年4月24日 義経 京都へ凱旋入京

壇ノ浦の合戦から一ヵ月後、義経らが京都に戻ってきました。京都は大フィーバーに。さらに26日。土肥実平らが平氏の捕虜を連れ入京。あれほど美しかった平宗盛が、別人のようにやせ衰えている!と、京都では大騒ぎに。さらに引き回しされることとなり、多くの人が京都に集まりました。

後白河法皇も、車の中から密かに見ていたそうです。群衆の中には平氏に恩を受けた人が大勢いました。そして涙を流して見ていたのです。


義経大慌て!頼朝は何でそんなに怒ってるの?

頼朝が自分のことを怒っているというのを聞いた義経。はっきりいってワケがわかんなかった。自分は兄・頼朝の為に、平氏を倒すべく必死で戦ってきた。なのにどうしてそんなに怒ってるんだ?どうしてオレを警戒しなきゃなんないんだ?と、ホント不思議でした。さらに、義経を勘当するというニュースも入ってきて、義経さらにビックリ!

義経は頼朝に逆らう気など全くないんだから、驚くのも当然。さっそく自分は頼朝に反抗する気なんて全くない!という手紙を書きました。5月7日にその手紙は頼朝のもとへ。が、頼朝は「さんざん勝手なことをしておいて今更なんだ!載頼はきちんと全てを報告し、勝手な振る舞いはしないといのに!義経は自分勝手に行動しておいて、今になってオレの機嫌が悪いからって手紙を書いてくるとは!あのバカめ!」と、ますます怒り狂うの頼朝でした。

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