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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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義経 天皇の未亡人に手を出す!

安徳天皇の母である建礼門院(けんれいもんいん)は死にきれずに助かってしまい、義経の前に連れて行かれました。高倉天皇の妻でしたが、この天皇が病弱で、安徳天皇が即位した翌年の1181年に21才の若さで死んでしまいました。そのため徳子は建礼門院と名乗っていました。で、義経の前につれてこられた建礼門院。

義経は手厚くおもてなしをしたんですが、なんと建礼門院が義経のことを好きになっちゃうのです。この頃の義経は大人気でもー女性なんてよりどりみどり。建礼門院が義経に告白しちゃうと、なんと義経、それを受け入れちゃったのです。

ちょっと奢っている部分もあった義経。
※実際は戦いに負けた女性の常としてレイプされまくったらしいですが・・・(涙)

ですが冷静に考えれば未亡人ではあっても「天皇の妻」だけど勝利に酔いモテモテだった義経は、軽い気持ちで建礼門院とできちゃたのです。平清盛が一番可愛がっていた娘・徳子は、あろうことか平氏の最大の敵・源氏の棟梁の弟と深い仲になってしまうという許されないスキャンダル。頼朝もさすがに「天皇への冒涜だ!」と周りからクドクド言われ、義経をかばうことはできなくなってきました。かばうどころか「あのバカ!ヤツはほんっとーに何にもわかってない」と、さらにむかつくことになっていくのです。


1185年5月7日 義経鎌倉へ謝りに! 腰越状(こしごえじょう)

義経は頼朝が怒っていることを知り、手紙じゃいくら謝っても無理かも・・・と思い、鎌倉へ行くことにしました。壇ノ浦で捕虜にした平宗盛(むねもり)・清宗(きよむね)親子を連れ、5月7日京都を出発したのです。15日に神奈川県の酒匂(小田原)に到着し、使者を出し明日鎌倉に到着しますという連絡をしました。が、頼朝は北条時政を酒匂へ向かわせ、「捕虜だけ受け取るからお前はそのへんで待ってろ」という伝言を言い渡したのです。

義経は鎌倉の入り口である腰越までやってきて、数日過ごしました。が、まったく頼朝から連絡が来ない。「そんなに怒ってるのかなぁ?これは絶対誤解を解かなくちゃヤバイかも」と憂鬱に。そして義経は24日に、大江広元(おおえひろもと)宛てに手紙を書いたのです。

これが有名な「腰越状」です。

「恐れながら申し上げます。私は父の恥辱をすすぎ、本来なら褒章があってもいいところなのに、梶原の讒言により私の莫大な勲功は全てナシになってしまいました。そのため虚しく悲嘆の涙に暮れております。そして鎌倉に入ることも出来ず虚しく数日を送っています。ここでこのまま対面してくれないのであれば、兄弟の縁はきれたも同然です。なぜこのような事になってしまったのでしょうか?まだまだ申し上げたいことは沢山ありますが、紙に書ききれません。なにとぞ義経の心をわかってください」

というような内容で、手紙もすごく長い文章でした。この腰越状の下書きが鎌倉の満福寺に残ってます。


1185年6月9日 義経ショック・・・京都へ戻る

腰越状を受け取った大江広元。が、広元はその手紙を頼朝に渡しませんでした。結局義経は、鎌倉入りを許されなかったのです。とりあえず鎌倉に行けば何とかなるだろうと思っていた義経は大ショック。頼朝の仕打ちに恨みを持ちながら、平宗盛らを連れ京都へ戻っていったのです。


義経捨てゼリフを吐く

虚しく京都に帰ってきた義経。ショックは恨みに変わってきていました。しかも京都に戻る時に「頼朝に恨みを持ってる者は義経の所に来い」と捨てゼリフを吐いたのです。これを聞き、ますます怒った頼朝。「義経の所領を全部没収しろ!」と命令しました。

京都に戻った義経は、戻ったとたん自分の所領が没収されているのを知りました。ここまで2人の間がこじれてしまうと、頼朝はもう義経が邪魔者以外の何者でもなかった。「自分は正妻の子・ヤツは愛人の子」とゆー差別もあった頼朝でした。


1185年6月21日 平宗盛・清宗の処刑

頼朝は鎌倉にて捕虜として連れてこられた宗盛らと面会。この時、宗盛が頼朝に対し媚びへつらい、見苦しい様を見せたのです。反対に弟の重衡は堂々としており、「さすがは常勝将軍(武芸にも優れ、常に勝っていたことから付いたあだ名)」と周りの者を感心させたそうです。そしてこの場にいた人々は宗盛を「なんと情けない。媚びたところで命が助かるはずもないというのに・・・」とあざ笑いました。頼朝は宗盛親子を義経に渡し処刑するように命じました。

義経は近江(滋賀県)で宗盛・清宗を引き離しました。宗盛はここが自分の死に場所とわかると、最後の瞬間まで息子清宗のことばかり考え斬られました。そして清宗も斬られたのです。さんざん醜態をさらした宗盛ですが、人々は最後の最後まで我が子の事を心配する宗盛の姿をとても哀れみました。

また処刑人として宗盛を斬ったのは橘公長。この人は元々平氏の家来でした。平氏が危なくなってくると真っ先に寝返った人です。人々は「いくら世にへつらうと言っても、情けない奴だ・・・」と非難したそうです。


1185年9月 頼朝 梶原景時を偵察に行かす

この頃、頼朝の叔父である源行長(ゆきいえ)に怪しい動きが。行長は以仁王が挙兵した時、全国の武士に令旨を与えたりした人です。その後、頼朝の下に入ったんですが、「なんでオレがこの地位なの?」と不満ブーブーで、とうとう頼朝に追い出されました。すると行長は頼朝のライバルである木曽義仲の所に行き、頼朝と義仲の関係をさらに悪化させました。

頼朝にとって「トラブルメーカー」だったのです。そんな行長が今度は義経と何か企んでいるというニュースを聞いた頼朝。「またあいつか・・・。景時、京都に行ってヤツラの様子を探ってきてくれ」と命令しました。景時が京都に行き、わざと義経に「行長を追討しませんか?」と話しを持ちかけました。すると義経は「オレ今病気だから。行長?あぁ、あいつは俺らと同じ源氏一族だよ?攻めるのはマズイでしょー?それにオレ病気!治ったらその話しをしようや」と曖昧な返事だったのです。


1185年10月 義経暗殺計画 土佐房昌俊京都へ

鎌倉に戻った景時にその話しを聞いた頼朝「義経は行長と何か企んでいるから仮病を使ったのだな。よし!こうなったらもう義経を殺すしかない!」と、とうとう心に決めたのです。そして「誰か義経を殺す役目を申し出る者はいないか!」と聞きました。すると皆、うつむき頼朝と目を合わせないのです。

頼朝は「景時、お前が行け」と命令しましたが、景時は「えっ!私は色々とやることが・・・しどろもどろ・・・」と、必死になってその役目を辞退する始末。戦の天才である義経を殺す役なんて、おっそろしくて出来ないよー・・・・という空気が流れまくりました。するとその時、土佐房昌俊という男が手を挙げたのです。

※土佐房昌俊の出目やこれまでの半生は不明です。頼朝の父、義朝に最期まで従っていた金王丸が名前を変えたとも言われています。

そして10月9日。土佐房昌俊は義経を討つべく京都に向かいました。が、これはアッサリと義経にばれてしまい土佐房昌俊は首を斬られてしまったのです。


義経激怒!頼朝をやっつけてやる!!

暗殺者までよこされた義経は、とうとうキレた。「もう兄とも思わん!」と、後白河法皇のもとへ行き、「頼朝を討たせてくれ」という令旨を願い出たのです。そうこなくっちゃ!とウッキウキなのは後白河。武士の力が日に日に強くなっていることをムカムカしていた後白河は、待ってましたとばかりに義経に「頼朝追討」の令旨を与えました。

後白河は真っ向から頼朝と対立したら勝ち目のないこともわかっていました。で、頼朝を牽制するために義経を利用したのです。官位を授けたのも、義経をめちゃくちゃ可愛がったのも全て自分のため。両者が争っていてくれれば、院政は安泰だからです。

この時も、義経に令旨を出し義経のご機嫌をとり(いまや朝廷の武力は義経しかないから)、後で頼朝には言い訳しとこ・・と考えていたのです。そして今度という今度は覚悟を決めた義経。トラブルメーカー行長も義経軍に加わることになったのです。


1185年10月29日 頼朝「ふーん・・・やる気なんだ?」

暗殺計画の失敗、義経が追討の令旨を受けたことを聞いた頼朝。が、「へぇー」って感じで、全く焦りませんでした。頼朝は、父・義朝の菩提を弔うためのイベントで大忙しだったのです。で、そのイベントが終了した10月24日に和田義盛と梶原景時を呼び、「明日、京都に行こうぜ」と言ったのです。が、翌日頼朝はビックリ!

集まった兵らはわずか58人だったのです。みんなこないだまで義経とともに平氏と戦っていました。そして義経の戦いっぷりや、天才的な武略に恐れをなしていたのです。ですが出発しないわけにもいかないので、とりあえず先陣が25日に鎌倉を出ました。29日になると頼朝自らが鎌倉を出たのです。すると「頼朝殿自らが出陣なされた」というニュースが東国に広まりました。

さすがに棟梁自らの出陣となれば行かないわけにはいかないよなぁーと、続々と武士達が集まり始めたのです。


11月3日 義経 都落ち 西へ逃げる

対する義経は、頼朝追討の宣旨を受け、近国の武士達を味方につけようとしていました。が、全然味方が集まらないのです。いまや源氏の棟梁に勘当され、所領も没収された義経。「義経の味方したって、メリットないじゃん?だったら頼朝の方がいいじゃん」という者が殆どだったのです。義経の思惑は見事外れてしまいました。ついに義経、これでは無理だと都を出て西へ向かうことにしたのです。

11月3日の早朝、義経は主従200騎で静かに都を出て行きました。かつて平氏や木曽義仲が都落ちした時は、掠奪や放火がめちゃくちゃ多かったのに対し、義経は見事にきれいな引き際だったのです。こうした引き際が、後々まで義経の評判を良くしたのです。


11月6日 義経 行方不明に!

義経一行は大物浦(兵庫県)から船に乗りました。すると、ものすごい暴風雨となり船が転覆してしまったのです。従者は一目散に逃げ、義経のもとに残ったのは源有綱(ありつな)・堀景光(ほりかげみつ)武蔵房弁慶・静御前の4人だけとなってしまったのです。

そして義経は以後行方不明となりました。


11月7日 頼朝「後白河は日本一の大天狗じゃぁ!」

京都に向かっている頼朝に「義経都落ち!」のニュースが入り、さらに「後白河は義経が都落ちする前日に、山陽道などの全ての土地を義経にあげるっていう約束をした」というのを聞きました。「はぁ!?こないだのオレ様追討命令といい、勝手に土地あげるとか言ったり、後白河は一体何なんだ!?」と、怒りの矛先は後白河へ向かっていきました

頼朝が怒っているというニュースを聞いた後白河。「こりゃマズイ!」と、その日のうちに義経の官職を剥奪。さらに、義経と行長を探すよう国司達に命令したのです。頼朝の怒りを恐れた後白河は、すぐさま使者を出し「義経のことは悪魔がワシの心にちょっと入ったのです。それに、頼朝追討の宣旨を出さないと、義経と行長はワシの目の前で自殺するって言うし・・・。だから出しちゃったけど、ワシの本心ではないのじゃ」と弁解しました。

その弁解に対し頼朝は「オレは多くの朝敵をやっつけ、法皇に対して忠義を尽くしてきたよね?だけどオレを追討しようとしたよね?いくら本心からじゃないって言ったって信じられないからな!そもそも義経らの謀反だって、仕向けたのは法皇だろぉ?よって日本一の大天狗は法皇である!!」と言ったのです。

この頼朝の発言に後白河や朝廷の人々は顔が真っ青。やばいことになった・・・・朝廷全部がこう思ったのです。


1185年11月28日 守護・地頭を設置する

頼朝の怒りはおさまりそうにありませんでした。25日には北条時政が千騎の兵を率いて京都へ。そして「義経・行長を探すために幕府より派遣した守護・地頭を日本各地に置きたい」と言って来たのです。守護というのは、国内の御家人の監督や軍事・警察の仕事をするとこ。地頭は、全国の荘園などに置かれ、年貢の取立てや警察の仕事をするとこ。

表向きは行方不明になった2人を探すためというものでしたが、頼朝の考えは「全国各地に幕府の支配下である部署を置く」というものでした。もはや後白河は、その願いを拒否する力はありませんでした。もう受け入れるしかなかったのです。これにより全国に頼朝の支配下を置き、軍事・警察の権利を握り、鎌倉幕府は支配力を伸ばしていくこととなります。

鎌倉幕府が武家政権の足場を固めた瞬間でした。ちなみに、この守護・地頭はのち「大名」に代わっていき、戦国に突入することとなるのです。


11月17日 静御前捕まる

義経は追われる立場となり、あちこち逃げ回ることになってしまいました。都では義経は○○にいる!などと、色んな噂が飛び交いました。実際義経は吉野に潜伏していました。義経は吉野にいるという噂も流れており、吉野山を探していると、義経の愛妾静を捕らえたのです。静はここまで一緒に逃げてきましたが、吉野山は古来より女人禁制のためやむなく別れることに。そして下山途中に捕まってしまったのでした。


1186年4月8日 静御前 鎌倉八幡宮で舞う

捕らえられた静は3月1日、母とともに鎌倉に連行されました。静は義経の行方を厳しく尋問されるが一切口を割らなかった。4月8日 頼朝の妻北条政子が、日本一の白拍子と言われている静の舞いを是非見てみたい!と言いました。

義経の子を妊娠している(ちょーど5ヶ月)静は、舞うことを辞退するんだけど結局断りきれずに舞うことに。頼朝が「八幡大菩薩の為に舞え」と命令しました。が、静が舞ったのは義経への思いを込めた舞だった。

野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき
 しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔を今になすよしもがな

内容は「吉野山の白雪を踏みながら、山へ入ってしまったあのお方。その跡が恋しくてたまりません。静、静と繰り返し私の名前を呼んでくれた懐かしい義経殿。もう一度、義経殿に会いたい」

静の美しい歌声と舞に人々は超感激!ですが頼朝激怒!!!鎌倉万歳の舞をするべきなのに、反逆者である義経を慕う歌をうたうとは何事じゃ!!と、今にも静をぶっ殺しそうな勢い。そこに政子が、「静の気持ちはよくわかります」と頼朝をなだめた。「私だってあなたが戦いに行っている間は、心配で心配で魂が削られる思いでした。そのときの気持ちは今の静と同じです。」頼朝は政子に弱い。仕方なく機嫌を直したのです。


1186年5月12日 源行長死す!逃げる義経

義経らは逃げまくっていました。鎌倉では噂ばかりが先行し、捜査は困難を極めていました。が、とうとう5月に行長が包囲網にひっかかりました。和泉国の下級役人の家に匿われているということが明らかとなり、12日に北条時定らが向かいました。これに気がついた行長は山中に逃げ込みましたが捕らえられ、首を切られたのです。

さらに6月、義経の母である常盤御前と、妹の廊の御方が京都で捕まりました。常盤から義経の居場所を聞いたけど、すでに逃げた後でした。7月には義経小舎人童(こどねりわらわ・雑用係りの少年)が捕らえられ、自白により比叡山にいることがわかりましたが、義経らはそこも逃げた後でした。


1186年7月29日 静御前出産

その後静は、鎌倉にて出産することを強制されました。そして7月に男児を出産したのです。が、生まれた子が女児なら命は助けてもらえるが、男児の場合は殺すと頼朝から言われていたのです。頼朝から命令を受けた安達新三郎は、泣き叫ぶ静の手から生まれたばかりの男児をもぎとりました。静は泣き伏し、叫びました・・・。そして、その子は由比ガ浜の海へ沈められてしまったのです。この時は政子の助命願いも頼朝は却下。

自分が平清盛に助けられたことにより平氏は滅亡したということもあって、幼子でも男児を生かしておくことは危険ということがわかってたんでしょう。9月、静は京へ帰ることを許される。この時政子の娘大姫は静にとても同情し、たくさんの贈り物をしたらしい。大姫も大好きだった婚約者を父頼朝に殺されているから同情したみたいです。その後の静は行方不明。悲恋の恋をした伝説の女性となりました。


頼朝・政子の娘 大姫

↑で大姫は静御前に同情しまくったと書きましたが、大姫もかわいそうな女性なのです。大姫は頼朝と政子が伊豆で暮らしていた頃い生まれた娘です。6歳の時に木曽義仲の嫡男 義高(11歳)と婚約させられました。小さな頃から「お前のダンナは義高だよ」と言われ続け、小さな少女は恋心を抱いていたのです。

ですが1183年に義仲が戦いに破れた時 息子の義高を生かしておいたらいつ反旗を翻されるかわからない・・・と12歳の義高は、父の頼朝に殺されてしまったのです。その後頼朝と政子は一条高能という貴族との縁談を持ち掛けたり、後鳥羽天皇へ入内させようとしたり、なんとか傷ついた娘に幸せな結婚をさせようと頑張るのですが、大姫の心は閉ざされたまま。「一条と結婚するくらいなら死ぬ!」と言い、義高への思いを貫き一生を終えたのでした。


1186年9月22日 義経家臣 次々と捕まる

7月には義経の腹心伊勢三郎義盛も捕らえられ首を斬られました。9月には堀景光が。そして義経の腹心で、頼朝挙兵の時からの仲である佐藤忠信(ただのぶ)も捕らえられました。忠信は京都に大好きな彼女(夫アリ)がいて、一通の手紙を渡したのです。この手紙を夫が発見してしまい足がついてしまったのでした。


1186年11月頼朝 朝廷に最後通牒!

「こんなに探してんのに、何故いつまでも捕まらないんじゃぁ!」とブチ切れた頼朝。朝廷に向かって「義経が捕まらないのは、お前ら公卿が鎌倉を嫌いだから義経に味方してるからだろ?噂では後白河法皇の息子、仁和寺宮が匿ってるって話しも出てるぜ?そっちがその気ならこっちにも考えがある!すぐ3万の兵を派遣して、京都を片っ端から捜査してやるからな!」と言ったのです。

朝廷の一大事じゃぁー!と朝廷はパニックに。確かに朝廷は武士を「田舎者」とバカにしていたけど、武力ではかないっこない。プライドだけが高いだけだからね。何万もの兵が京都に押し寄せて捜索されちゃったら、京都はめちゃくちゃになっちゃう!と大騒ぎに。こうなったら一刻も早く義経を捕まえなければ大変なことになる!ということになり、ついに義経は法皇ら京都の公卿から見放されてしまったのです。


1187年2月 弁慶の勧進帳

畿内(関西方面)にいられなくなった義経一行。東北の藤原秀衡の所へ逃げていくことに。この頃の人数は12名。一行は山伏に姿を変えて安宅関(あたかのせき・石川県)の関所に差し掛かりました。関守の富樫左衛門が一行を取り調べることに。

弁慶は「我々は東大寺を建立するために諸国に寄進(寄付のこと)を募るため旅をしております」すると富樫は「お前が本物の山伏なら勧進帳を持っているはずだ。読んでみろ」と言ったのです。義経らは冷や汗が出る思いでした。ですが弁慶は全然慌てず巻物を取り出すと「それつらつらおもんみればぁー」と、すらすら読み上げたのです。弁慶は比叡山の学僧でした。なんとなく覚えていることを、声高々に即席で読み上げたのです。「こりゃ本物の山伏だ。お通りあれ」一行はホッとして通ろうとすると、役人の1人が「おや、あの男、義経殿に似ておる・・・」と言いました。

それを聞いた富樫が「そこの男!待て!」と叫びました。すると弁慶が金剛杖で義経をめっためたに打ったのです。「まったく腹が立つ!!お前が似てるってだけでわしらまで疑われるのだ!」とボカスカ殴りまくるのです。見かねた富樫が「い・・・いや・・何もそこまでしなくても。もうよい!早く通れ!」と言い、一行は無事関所を通ることができました。そして姿が見えなくなると、弁慶は涙を流しながら「私を殺してください!義経殿を殴るなど・・・」と義経に言ったのです。義経はもちろん許しました。


義経「子供捨てろ」発言

逃亡中、元・本妻である河越重頼娘も離婚された後、実家に帰らずに義経を追ってやってきていました。一行は越後(新潟)に入り、次は出羽(山形)と歩き、ようやく奥州へ入ったのです。が、ここで川越重頼娘が産気づいてしまいました。亀割山(山形)にて女児を出産しましたが、義経は「オレが無事なら娘は生きのびることができるけど、オレはこれから生きれるかどうかアテがない。だから山に捨てろ」と言ったのです。

ですが弁慶が「そのようなことを・・」と悲しい顔をし、その赤子を布にくるみ運んだのです。赤子は道中で一度も泣くことなく、一行は陸奥(宮城県)に入りました。


義経 とうとう平泉入り

義経の頼るところは藤原秀衡しかいませんでした。幼少の頃、鞍馬寺を逃げ出して藤原秀衡の世話になったこともあり、また藤原秀衡も義経をとても可愛がっていたので、喜んでかくまってくれたのです。平泉での暮らしは河越重頼娘とっては幸せな日々でした。他の女が誰もいない安らぐ日々だったのです。

藤原秀衡は仏教に帰依しており、争いを好みませんでした。そのため世の中が源平合戦で明け暮れている時も、中立を保ち続けていたのです。そこに義経が逃げ込んできました。ということは奥州平泉は頼朝に狙われることとなる。それがわかっていながらも、藤原秀衡は義経を喜んで迎えてくれたのです。頼朝は義経が平泉に逃げたことを苦々しく思っていました。東北地方で一番勢力のある藤原秀衡は、頼朝にとっても軽々しく攻撃できる相手ではなかったのです。


奥州藤原三代

以前にも書きましたが、奥州藤原は後三年の役により藤原清衡によって始まりました。初代清衡は拠点を平泉にうつし、中尊寺を作るなど平泉文化の基礎を作ったのです。清衡の死後、二代目となったのが基衡。平泉は「金」が多く出たため、莫大な金を元に中央政権と渡り合うほど奥州を確実なものとしました。基衡死後、三代目になったのが秀衡でした。

朝廷から「鎮守府将軍」を任命されるほど優秀で、奥州藤原100年の中で最も華やかな時代を築き上げたのです。


1187年10月29日 藤原秀衡死去!

が、あろうとことか義経の一番の理解者である藤原秀衡が寿命のため危篤状態になってしまったのです。秀衡は33歳の泰衡以下6人の息子達を呼びました。「今後義経を大将とし、平泉を守れ」と遺言したのです。そして秀衡は息を引き取ったのです。66歳でした。おもしろくないのは泰衡。泰衡は、父・秀衡が自分より義経を可愛がるのをおもしろく思っていなかったのです。


悩む泰衡 兄弟でモメる

頼朝は何度も義経を引き渡せ!という命令を出していました。泰衡は「父の時は何とか大丈夫だったけど、これからはヤバイんじゃないか・・・さっさと義経を引き渡したほうがいいんじゃないか??」と思うように。反対に泰衡の弟の忠衡は、「戦の天才義経がいれば大丈夫だ!」と思っていて、家の中でも対立意見がでるように。が、泰衡は「このままでは頼朝に攻め滅ぼされる!義経さえ殺せば頼朝は奥州を攻めてこないだろう!」と決意したのです。


1189年4月30日 義経死す

泰衡は数百騎を従え、義経の隠れ家へ。義経は十数人の家来達とともに防戦しましたが、もはや力は尽きはじめていました。もはやこれまで・・・と、妻と幼い娘を泣く泣く殺したのです。そして自らも腹を切り、家臣の十郎権守兼房に「火をかけろ」と命令し、炎の中息を引き取ったのです。義経31歳でした。


1189年6月13日 義経の首

炎の中、義経の首は見つけられ泰衡の使者によって腰越へ運ばれました。首は黒漆の箱に収められ、美酒に浸してありました。首実検をしたのは和田義盛と梶原景時。義経の変わり果てた姿を見た2人は、涙を流したそうです。が、頼朝はやってきませんでした。義経は死んでも鎌倉入りすることは許されなかったのです。


1189年9月6日 奥州藤原氏の滅亡

頼朝は「義経を匿った」として平泉を攻めることに。7月19日 頼朝自らが平泉へ向かいました。泰衡は「義経さえ殺せば何とかなるだろう」と思っていた自分の読みの甘さに愕然。頼朝からしてみれば、中央政権とも渡り合えるほどの勢力を持っている奥州平泉を倒すのは今しかない!と思っていたのです。

藤原国衡がかなり奮闘しましたが、負けてしまい、8月22日 頼朝軍はついに藤原の本拠地平泉へ入ったのです。が、 泰衡はもはや平泉を守るのは無理か・・と、前日逃亡していました。9月6日 逃亡した泰衡ですが、なんと家臣の裏切りにあい討たれてしまったのです。北の王者 奥州藤原の幕切れでした。奥州への大遠征は3ヶ月で終了しました。

頼朝にとってこの大遠征は、これまでの源平合戦などで動員した全国の武士達を再集結させ、頼朝のもとで戦わせたことに大きな意義がありました。武士達は鎌倉幕府の棟梁である頼朝の絶対的な権力を見せつけられることとなったのです。

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